出雲風土記によると、神代の携帯食は「乾飯(ほしい)」といわれるものでした。この乾飯が「糒(ほしい)」に変わったのは鎌倉時代からといわれています。ちなみに安土桃山時代の武将、伊達政宗が作らせた「南部煎餅」は保存食の第1号とも伝えられております。
天保13年(1842)、反射炉で有名な伊豆韮山の代官、江川太郎左衛門担庵公が非常時に備え、保存できる軍用の携帯食としてパンを焼き始めたのが、我国のカンパンの始祖です。外国文化の取り入れに熱心だった当時、水門藩は「兵糧丸」、長州藩は「備急餅」、薩摩藩は「蒸餅」と名付けた軍用パンを作り、非常時に備えていました。
明治10年、西南戦争のとき兵糧に困った官軍が、フランス軍艦からカンパンの援助を受けたと記録されています。当時はカンパンをビスコイドと呼んでいました。ビスは二度、コイドは焼くことを意味しています。
日清戦争でカンパンの重要性を痛感した軍は技師を欧州に派遣、ドイツ式の横長ビスケットを採用し「重焼パン」としました。日露戦争後、軍用食の改良が行なわれ、カンパンの製法に5%のもち米を入れたり、おにぎりのイメージを出すため胡麻をまぶすようになりました。「重焼パン」の名称は“重傷”に通じるとして忌み嫌い、その後「乾麺麭(かんめんぽう)」と改められ、最終的には「カンパン」に変わりました。
当時のカンパンは旧陸軍によって開発されたもので、世界の携帯食糧の中からドイツのものを模範としました。
現在ある小型のカンパンは、昭和5年頃より研究開発されたものです。カンパンは、その性格上味付けがされておりません。旧陸軍が研究開発した当時は、7年半の保存を目標としたため、糖、脂肪を除く必要がありました。
その後、糖分を補う目的で白い金米糖をカンパンと一緒に入れ、シベリアの極寒地でテストを行ないましたが、白い金米糖は氷を連想するということで不評を買いました。そこで、白を除き、黄、青、ピンク、紫、緑の5色の金米糖を採用しテストした結果、大好評を得たのです。
岡本かの子は新聞にこの試みを絶賛した随筆を載せています。